「土を喰らう十二か月」という映画、面白そうです。
予告編をみると、主演の二人、松たか子がとてもチャーミングで、沢田研二が素朴ですてきです。
本はもってるんでしょ? たらふくさん
うん、持ってます。どこいったかな? と2,3日探して、今日、見つけ出しました。
奥付を見ると、1991年とあります。今から32年前。たらふく、入社2年目ですね。
なぜ買ったのかなぁ、まったく記憶にありません。作者の水上勉さんの本、たらふくは、他に2冊くらいしか持っていないはずです。
好きでしょうがないという作家というよりは、気になる作家という感じです。
この本の印象は?
この表紙、緑と黒と茶の重苦しい配色をみてもわかるように、とても暗いイメージです。土とか、いもとか。ちょっとおどろおどろしさすら感じます。
この本のことを思い浮かべると、気持ちが晴ればれするとか、うれしくなるとか、そんなことは全然なくて、重苦しい気持ちにからめとられる感覚がします。
なので、本棚の奥に押し込められ、でも気になる存在なので捨てるに捨てられない。そういう本でした。
本は写真がけっこう多いです。作者の水上さんの写真も多いです。
きりっとしている一方、少しくたびれた感じもあり、その意味でもすっきりした感じはありません。映画の方のジュリーとすこし似ているかもしれません。
水上さんの若いころの写真をググるとわかりますが、かなりのイケメンです。そんなところもジュリーと似ていますね。
再読してみたらどうだったか……
思い出しました。
この本、いちおう料理の本なのですが、華やかな料理とかレシピはまったく出てきません。木の芽と味噌を山椒の木でつくったすりこぎですりおろす……そんな描写ばかりです。
なにせ、作者自身、「おかしなことだが」とことわっていますが、山椒の木ですりこぎを作るところから話が始まったりするわけです。
そして、山椒の木ですから、すり鉢ですっているうちに、多少なりとも、山椒の木の何かが、味噌にまじっているはずだ、というような微妙な話をするわけです。
畑でこしらえた芋とか野菜を使って、ちょこちょこと料理を作る。一月から十二月まで、そのおりおりで、畑と相談して何か食べるものをこしらえる。
ただ、それだけの話ですが、道具や素材や味わい方に、作者の生まれ育った過去のあれこれや考え方が絡み合い、ずっしりとわたしの心のどこかにたまっていった。それが、この本に感じる重苦しさの正体なのだと思います。
だって、しなびた大根とか、もやしのひげとか、むやみに捨てたくないし、素材の味をあじわいたい、という志向がたしかにわたしの中にあるのですから。
そうか、この本の影響だったのだな、と改めて思いました。
ただ、現実の生活の中で、しなびた大根とか、もやしのひげとか、じゃんじゃん捨てている自分もいるわけで、その矛盾にいたたまれなくもなりますが、いまのところは、しゃーない、と割り切るしかありません。
でもときおり、思い出しては、そんな素材を生かした、素朴な味の料理をつくって、食べる時間を持ちたい。60を過ぎて、ふとそんな気もします。
料理は修行なのだ……。そして人生自体も……
そんなことも言っています。直接的には言っていませんが。
水上さんが料理できるのは、9歳からくらした禅寺で精進料理を作ることを覚えたからです。
だからどうしても、ふつうの人がふつうに料理するのと違い、修行という一面と切っても切れません。
作者は料理を、ひとつずつ順番にではなく、飯を炊きながら、みそ汁を煮ながら、さささっとこしらえるといいます。
そこには、いろんなものに目配りをし、神経を張り巡らしながら、いいタイミングで無駄なく素早く作るための、鋭敏な心や頭の働きがあります。それを可能にするのは鍛錬であり、修行なのだと思います。
そして、それは人生のいろんな局面で生かされているはずです。
話をひろげると、生活のいろんなこと、たとえば料理や食事のようなささいなことも、手を抜かずにやれば、人生における修行になりうるのだと思います。
この本を書いたとき……
作者は60歳でした。
つまり今のたらふくと同じ年です。
考え方や写真に見えるたたずまいが、とても老成しているように感じます。
ささいなことを大事に。
畑にころがっているような芋でも、丁寧に料理すれば、うまい一皿になる。
たらふくも、わーわーやるばかりではなく、少し、そんな落ち着いた時間を持ちたい、そう思いました。
今年やりたいこと10個で書いたように、まずは庭で畑をやろう。トマトでも育てることにしよう!
その前に映画「土を喰らう十二か月」をぜひとも観ることにしよう!
それじゃね、チャオ!